「添育(そういく)」を支える25の理論を巡る旅。
【哲学編】も、いよいよ佳境です。
これまでの哲学編で、私たちは「支配しない(アドラー)」「寄り添う(ケア)」「信じる(PCA)」ことを学んできました。



しかし、現場の私たちは、それでもやっぱり悩みます。
「なぜ、何度言っても伝わらないんだろう?」
「なぜ、あの子は変わらないんだろう?」
それは心のどこかで、
「正しい入力をすれば、正しい出力(結果)が出るはずだ」と信じているからです。
今回ご紹介する理論は、その期待を科学的に「粉砕」します。
生物学者マトゥラーナとヴァレラが提唱した、20世紀最大の奇書とも呼ばれるシステム理論、
「オートポイエーシス(自己創出)論」です。
その結論は衝撃的です。
「他者を外からコントロールすることは、原理的に不可能である」
人間は「パソコン」ではない
私たちは無意識に、子どもをパソコンのような「機械」だと思っています。
キーボードで「勉強しなさい」と入力(Input)すれば、
「勉強する」という実行結果(Output)が出ると期待します。
しかし、オートポイエーシス論では、生命を「閉鎖系(閉じたシステム)」と定義します。
- 機械(開放系):外部から情報を直接入力できる。設計通りに動く。
- 生命(閉鎖系):外部からの入力は受け付けない。自分の内部構造だけで動いている。
私たちの脳や心には、USBポートもキーボードもついていません。
先生や親の言葉が、そのまま子どもの脳にインストールされることは、
生物学的にあり得ないのです。
「石ころ」と「犬」の違い
では、私たちが「教育」だと思ってやっていることは何なのでしょうか?
わかりやすい例え話があります。
- 石ころ(機械的システム):
蹴れば、物理法則に従って予測通りに飛んでいきます。入力=出力です。
- 犬(生命システム):
では、犬を蹴ったらどうなるでしょうか?
キャンと逃げるか、ガブッと噛み付くか、あるいは尻尾を振るか。
どう反応するかは、蹴った強さではなく、「その時の犬の内部状態」が決めるのです。
人間も同じです。
「勉強しなさい!」という言葉を、子どもがどう処理するか。
「愛のムチ」と受け取るか、「うるさい雑音」と受け取るか。
その決定権の100%は、受け手(子ども)のシステム内部にあり、
送信者(あなた)には1ミリも決定権がないのです。
私たちにできるのは「有益なノイズ」になることだけ
「えっ、じゃあ外から何もできないの? 教育は無意味なの?」
そうではありません。
コントロール(入力)はできませんが、「攪乱(かくらん)」することはできます。
専門用語で「摂動(せつどう/perturbation)」と言います。
壁をドンと叩けば、部屋の中の人は「おっ、何か音がしたぞ」と反応しますよね。
同じように、私たちが子どもに関わることは、
彼らの閉じたシステムの外壁を「トントン」と叩き、
「おや?」と思わせる刺激(ノイズ)を与えることに過ぎません。
- × 指導(Input):
「これを覚えなさい」(無理やりデータを書き込もうとする ⇒ エラー・拒絶)
- 〇 添育(Perturbation):
「こんな面白い世界があるよ」「私はこう思うよ」(刺激を与える)
⇒ その刺激を受けて、子どもが「自ら変わろう」とシステムを作動させるのを待つ。
Vol.8の「人間中心アプローチ」で言った「教えるな、促進せよ」は、
システム論的に言えば「入力するな、摂動を与えよ」ということになります。

すれ違いながら、共に踊る(構造的カップリング)
オートポイエーシス論には、もう一つ「構造的カップリング」という希望の概念があります。
お互いに「閉じた世界」に生きている私たちですが、
長い間一緒にいて、お互いに「トントン(刺激)」し合っていると、
次第に「あうんの呼吸」が生まれてきます。
それは、情報をやり取りして理解し合ったのではなく、
お互いのシステムが「相手の刺激に合わせて、自分を微調整し続けた結果」です。
これを、マトゥラーナは「愛」と呼びました。
完全に理解し合うことはできない。思い通りにもできない。
それでも、隣にいて刺激を与え合い、すれ違いながらもダンスを踊り続けること。
添育が「待つこと」や「環境づくり」を重視するのは、
この「構造的カップリング(信頼関係の成熟)」には、どうしても時間がかかるからです。
即効性のあるコントロール(暴力や恐怖)は、このカップリングを破壊します。
まとめ:「伝わらない」からこそ、敬意が生まれる
「言えば伝わる」
「教えれば育つ」
そんな傲慢な幻想を捨てましょう。
「伝わらなくて当たり前」
「思い通りにならなくて当たり前」
そう諦めた(明らめた)瞬間、イライラは消え、
目の前の子どもの「閉じた世界」への敬意が生まれます。
「私の言葉は、この子の中でどう翻訳されたのかな?」
「次はどうやって『トントン』してみようかな?」
そうやって、通じ合えない他者と、粘り強く関わり続けること。
それこそが、添育という営みの本質なのです。
次回、【哲学編】の最終回(Vol.10)。
「相手のことはわからない」と知った私たちが、
それでも相手を理解しようとする時に必要な「心の構え」。
自分の色眼鏡を外す哲学、「エポケー(判断停止)」について解説します。
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