第1回では教員として感じた「指示待ち」への危機感を、

第2回ではその答えとなった『学び合い』との衝撃的な出会いを綴りました。

今回は、舞台を学校から「家庭」へ移します。
育休を取得し、生まれたばかりの我が子(0歳児)と24時間向き合う中で、
私が目撃した「いのちの真実」。
それは、大学で学んだ理論が「確信」へと変わる瞬間でした。
「人は、教えられなくても自ら育つ」
この紛れもない事実を突きつけられたエピソードと、そこから導き出された「添育(そういく)」の核心について、教員でありパパである視点から深く掘り下げます。
私たちは普段、無意識のうちにこのように思い込んでいないでしょうか。
「子どもは未熟な存在であり、大人が何かを教えなければ成長できない」と。
特に「教育」という言葉の響きには、どうしても「知っている者が知らない者へ授ける」
「できる者ができない者を引き上げる」という、上から下への強いベクトルを感じます。
長年、学校現場にいた私も、どこかでそう信じて疑いませんでした。
「私が教えてあげなければ、この子たちは路頭に迷ってしまうのでは?」
しかし、その思い込みがガラガラと音を立てて崩れ去る経験をしました。
それは、教員としてのキャリアを一時停止し、育休を取得して、
生まれたばかりの0歳のわが子と毎日向き合っていた時のことです。
教科書も、カリキュラムも、指導案もない、ただの日常の風景の中で、
私は、いかなる「教育」も必要としない、圧倒的で自律的な「育ち」のエネルギーを目の当たりにしたのです。
「寝返り」に先生はいらない
それは、わが子が生後数ヶ月を迎え、寝返りに挑戦し始めた頃のことでした。
仰向けに寝転がった小さな体が、何か見えない力に突き動かされるように、一生懸命に体をよじり始めます。
短い手足をバタバタとさせて、重力に逆らおうとするのです。
ゴロン、と半分まで行っては、またコロンと元に戻ってしまう。それでも何度も何度も繰り返す。
私はこうした姿を、すぐ隣で見守っていました。
この時、私にできることは何でしょうか?
「はい、まず右足の親指に力を入れて、次に腰の筋肉をひねって、重心を左肩に移動させてごらん」
なんて、言葉で説明しても絶対に伝わりません。
では、できなくて可哀想だからといって、私が手を出して、体をひょいとひっくり返してあげるのが正解でしょうか?
それも違います。
それでは、本人が「自分で自分の体をコントロールする感覚」を掴む機会を奪ってしまうことになります。
私にできることと言えば、
・周りにぶつかって危ないものがないかを確認し(環境を整える)、
・いざ寝返りができたときに窒息しないよう注意深く見守り(観る)、
そして何よりも「この子自身の力で、いつか必ず成し遂げる」と信じて待つことだけでした。
そう、
この偉大な「寝返り」という学習プロセスにおいて、「先生」の出番は一切なかったのです。
「教育」と「添育」は、対になるもの
何日かの試行錯誤の末、ついにその瞬間が訪れました。
彼が自分の力だけで、見事にゴロンと寝返りを成功させたのです✨
うつ伏せになった状態で顔を上げた我が子はどこか誇らしそうで、
その瞳は、達成感と自信でキラキラと輝いているようでした。
私はその姿を見て、雷に打たれたような衝撃を受けました。
「教えていないのに、できた✨」
誰かに導かれたわけでも、強制されたわけでもなく、自らの内側から湧き上がる
「動きたい」「世界を見たい」という欲求に従い、何百回もの失敗(エラー)を繰り返し、
自分で自分の体を調整しながら、ついに最適解に辿り着いたのです。
この光景を前に、私は確信しました。
これまで私が学校現場で信じてきた、熟達者が未熟者を導く「縦の教育(Education)」。
それだけが人の育ちの全てではない、と。
むしろ、生命の根源的な育ちにおいては、大人が「熟達者」という冠を脱ぎ捨て、
学習者の横に並び、その試行錯誤のプロセスに寄り添うというような、
もう一つのアプローチが必要不可欠なのです。
私はそれを、縦の「教育」と対になる概念として、
横の「添育(そういく)」と呼ぶことにしました。
* 教育(縦): 正解への最短ルートを教え導く。
* 添育(横): 本人が試行錯誤する時間に寄り添い、信じて待つ。
この二つは、どちらが優れているという話ではありません。
車の両輪のように、両方が揃って初めて、人は豊かに育つのです。
信じて「添う」ことで、自律のスイッチが入る
わが子の寝返りの成功は、彼自身の力で勝ち取ったものです。
だからこそ、あの自信に満ちた表情が生まれたのでしょう。
もし私が良かれと思って先回りし、手取り足取り教えていたらどうなっていたでしょうか。
寝返り自体は早くできたかもしれません。
しかし、あの「自分でできた!」という強烈な達成感は味わえなかったはずです。
「自分で試行錯誤して、自分で成し遂げた」という経験の積み重ねこそが、
「次も自分でやってみよう」という意欲を生み、やがては自分の人生を自分で切り拓いていく
「自律のスイッチ」を入れることになるのではないでしょうか。
「大人がすべきことは、教え込むことばかりではない。
本来持っている『自ら育とうとする力』を邪魔せず、
その発露を信じて、そっと環境を整えてあげることも大切なんだ」と、
そう我が子が教えてくれているようでした。
結びに:主役の座を、子ども(学習者)に返す
目の前の子どもが、算数の問題でつまずいている時。
友達関係で悩んでいる時。
以前の私なら、すぐに「こうすればいいんだよ」と正解を教えていたでしょう。
しかし今は、一度グッとこらえます。
あの寝返りの時のように、まずは見守ります。
「この子は今、自分の中で試行錯誤している最中なんだ。
自分で答えを見つけようとしているんだ」と信じて。
「私が育ててあげる」という傲慢さを手放し、
「あなたが育つのに、添わせてもらう」という謙虚な視点をもつこと。
この意識の転換ができたとき、子育ては、そして教育は、
もっとよりよいものになると私は信じています。
さて、ここまで「教育」への違和感、『学び合い』との出会い、
そして「0歳児からの学び」を経て、私が「添育」に至った経緯をお話ししてきました。
次回は、これまで少し言葉を濁してきた核心部分に触れます。
「なぜ『教育』という言葉に、私はトゲを感じるようになったのか」
既存の「教育」を否定するつもりはありませんが、
なぜ「添育」という新しい旗を立てようと思ったのか。
その強い想いについて、改めてお伝えしたいと思います。




コメント