【第3回】0歳児が見せてくれた、教えられなくても自ら育つという事実

添育(そういく/Soiku)

 

第1回では教員として感じた「指示待ち」への危機感を、

【第1回】『先生、次はどうすればいい?』 その言葉に感じた小さな「怖さ」
公立小学校の教壇に立ち、十数年。私はこれまで、何十人、何百人もの子どもたちと向き合ってきました。その中で、何度も耳にしてきた、ある「定番のセリフ」があります。「先生、次はどのページをやればいいですか?」「先生、ここは何色で塗ればいいですか?...

 

第2回ではその答えとなった『学び合い』との衝撃的な出会いを綴りました。

【第2回】私の教育観を壊した『学び合い』という衝撃
第1回の記事では、私が現場で感じていた「指示待ちの子ども」への危機感と、自分自身の関わり方に対するモヤモヤについてお話ししました。今回は、その暗闇の中にいた私に一筋の光を投げかけ、教育観を根底から作り直してくれた運命的な出会いについて綴りま...

 

今回は、舞台を学校から「家庭」へ移します。

 

育休を取得し、生まれたばかりの我が子(0歳児)と24時間向き合う中で、

私が目撃した「いのちの真実」。

 

それは、大学で学んだ理論が「確信」へと変わる瞬間でした。

 

「人は、教えられなくても自ら育つ」

 

この紛れもない事実を突きつけられたエピソードと、そこから導き出された「添育(そういく)」の核心について、教員でありパパである視点から深く掘り下げます。

 


 

私たちは普段、無意識のうちにこのように思い込んでいないでしょうか。

 

「子どもは未熟な存在であり、大人が何かを教えなければ成長できない」と。

 

特に「教育」という言葉の響きには、どうしても「知っている者が知らない者へ授ける」

「できる者ができない者を引き上げる」という、上から下への強いベクトルを感じます。

 

長年、学校現場にいた私も、どこかでそう信じて疑いませんでした。

 

「私が教えてあげなければ、この子たちは路頭に迷ってしまうのでは?」

 

しかし、その思い込みがガラガラと音を立てて崩れ去る経験をしました。

 

それは、教員としてのキャリアを一時停止し、育休を取得して、

生まれたばかりの0歳のわが子と毎日向き合っていた時のことです。

 

教科書も、カリキュラムも、指導案もない、ただの日常の風景の中で、

私は、いかなる「教育」も必要としない、圧倒的で自律的な「育ち」のエネルギーを目の当たりにしたのです。

 

「寝返り」に先生はいらない

 

それは、わが子が生後数ヶ月を迎え、寝返りに挑戦し始めた頃のことでした。

 

仰向けに寝転がった小さな体が、何か見えない力に突き動かされるように、一生懸命に体をよじり始めます。

短い手足をバタバタとさせて、重力に逆らおうとするのです。

 

ゴロン、と半分まで行っては、またコロンと元に戻ってしまう。それでも何度も何度も繰り返す。

 

私はこうした姿を、すぐ隣で見守っていました。

 

この時、私にできることは何でしょうか?

 

「はい、まず右足の親指に力を入れて、次に腰の筋肉をひねって、重心を左肩に移動させてごらん」

なんて、言葉で説明しても絶対に伝わりません。

 

では、できなくて可哀想だからといって、私が手を出して、体をひょいとひっくり返してあげるのが正解でしょうか?

 

それも違います。

 

それでは、本人が「自分で自分の体をコントロールする感覚」を掴む機会を奪ってしまうことになります。

 

私にできることと言えば、

 

・周りにぶつかって危ないものがないかを確認し(環境を整える)、

・いざ寝返りができたときに窒息しないよう注意深く見守り(観る)、

 

そして何よりも「この子自身の力で、いつか必ず成し遂げる」と信じて待つことだけでした。

 

そう、

この偉大な「寝返り」という学習プロセスにおいて、「先生」の出番は一切なかったのです。

 

「教育」と「添育」は、対になるもの

 

何日かの試行錯誤の末、ついにその瞬間が訪れました。

 

彼が自分の力だけで、見事にゴロンと寝返りを成功させたのです✨

 

うつ伏せになった状態で顔を上げた我が子はどこか誇らしそうで、

その瞳は、達成感と自信でキラキラと輝いているようでした。

 

私はその姿を見て、雷に打たれたような衝撃を受けました。

 

「教えていないのに、できた✨」

 

誰かに導かれたわけでも、強制されたわけでもなく、自らの内側から湧き上がる

「動きたい」「世界を見たい」という欲求に従い、何百回もの失敗(エラー)を繰り返し、

自分で自分の体を調整しながら、ついに最適解に辿り着いたのです。

 

この光景を前に、私は確信しました。

 

これまで私が学校現場で信じてきた、熟達者が未熟者を導く「縦の教育(Education)」。

それだけが人の育ちの全てではない、と。

 

むしろ、生命の根源的な育ちにおいては、大人が「熟達者」という冠を脱ぎ捨て、

学習者の横に並び、その試行錯誤のプロセスに寄り添うというような、

もう一つのアプローチが必要不可欠なのです。

 

私はそれを、縦の「教育」と対になる概念として、

横の「添育(そういく)」と呼ぶことにしました。

 

* 教育(縦): 正解への最短ルートを教え導く。

* 添育(横): 本人が試行錯誤する時間に寄り添い、信じて待つ。

 

この二つは、どちらが優れているという話ではありません。

車の両輪のように、両方が揃って初めて、人は豊かに育つのです。

 

信じて「添う」ことで、自律のスイッチが入る

 

わが子の寝返りの成功は、彼自身の力で勝ち取ったものです。

だからこそ、あの自信に満ちた表情が生まれたのでしょう。

 

もし私が良かれと思って先回りし、手取り足取り教えていたらどうなっていたでしょうか。

 

寝返り自体は早くできたかもしれません。

 

しかし、あの「自分でできた!」という強烈な達成感は味わえなかったはずです。

 

「自分で試行錯誤して、自分で成し遂げた」という経験の積み重ねこそが、

「次も自分でやってみよう」という意欲を生み、やがては自分の人生を自分で切り拓いていく

「自律のスイッチ」を入れることになるのではないでしょうか。

 

「大人がすべきことは、教え込むことばかりではない。

本来持っている『自ら育とうとする力』を邪魔せず、

その発露を信じて、そっと環境を整えてあげることも大切なんだ」と、

 

そう我が子が教えてくれているようでした。

 

結びに:主役の座を、子ども(学習者)に返す

 

目の前の子どもが、算数の問題でつまずいている時。

友達関係で悩んでいる時。

 

以前の私なら、すぐに「こうすればいいんだよ」と正解を教えていたでしょう。

 

しかし今は、一度グッとこらえます。

 

あの寝返りの時のように、まずは見守ります。

 

「この子は今、自分の中で試行錯誤している最中なんだ。

自分で答えを見つけようとしているんだ」と信じて。

 

「私が育ててあげる」という傲慢さを手放し、

「あなたが育つのに、添わせてもらう」という謙虚な視点をもつこと。

 

この意識の転換ができたとき、子育ては、そして教育は、

もっとよりよいものになると私は信じています。

 

 

さて、ここまで「教育」への違和感、『学び合い』との出会い、

そして「0歳児からの学び」を経て、私が「添育」に至った経緯をお話ししてきました。

 

次回は、これまで少し言葉を濁してきた核心部分に触れます。

 

「なぜ『教育』という言葉に、私はトゲを感じるようになったのか」

 

既存の「教育」を否定するつもりはありませんが、

なぜ「添育」という新しい旗を立てようと思ったのか。

 

その強い想いについて、改めてお伝えしたいと思います。

【第4回】なぜ「教育」という言葉に、少しトゲを感じるようになったのか
私は「教員」という職業を心から誇りに思っています。「教育(Education)」が、これまで人類の知恵を繋ぎ、未開の地を切り拓き、無数の人々の人生を豊かにしてきた。その偉大な功績に疑いの余地はありません。しかし、公立小学校という現場で、文字...

コメント

タイトルとURLをコピーしました