【第2回】私の教育観を壊した『学び合い』という衝撃

添育(そういく/Soiku)

 

第1回の記事では、私が現場で感じていた「指示待ちの子ども」への危機感と、

自分自身の関わり方に対するモヤモヤについてお話ししました。

【第1回】『先生、次はどうすればいい?』 その言葉に感じた小さな「怖さ」
公立小学校の教壇に立ち、十数年。私はこれまで、何十人、何百人もの子どもたちと向き合ってきました。その中で、何度も耳にしてきた、ある「定番のセリフ」があります。「先生、次はどのページをやればいいですか?」「先生、ここは何色で塗ればいいですか?...

 

今回は、その暗闇の中にいた私に一筋の光を投げかけ、教育観を根底から作り直してくれた

運命的な出会いについて綴ります。

 

それは、大学時代に触れ、現場に出てからその真価を思い知ることになった

『学び合い』(二重括弧の「学び合い」)という思想です。

 

この出会いがなければ、私は今も「教えること」に執着し、

子どもたちの可能性を無意識に摘み取る「親切な独裁者」のままだったかもしれません。

 


 

「教師が教壇に立ち、知識を授けるのが当たり前」

「子どもたちが静かに前を向き、先生の話を聞くのが良い授業だ」

 

そんな、私が疑うことすらなかった「教育の常識」が、音を立てて崩れ去った日があります。

 

私を救い、そして「添育(そういく)」という新しい看板を掲げることにつながる覚悟をくれたのは、上越教育大学の西川純教授(現在は退職)が提唱する『学び合い』という考え方でした。

 

初めてその理論に触れたとき、私の心に走ったのは「感動」ではなく、むしろ「拒絶」に近い衝撃でした。

 

なぜなら、そこには「教師の存在意義」を真っ向から問い直す、厳しくも温かい哲学があったからです。

 

「一人も見捨てない」という、美しくも過酷な覚悟

 

『学び合い』の根底に流れているのは、非常にシンプルで、かつ究極の願いです。

 

「学校は、多様な人々と折り合いをつけながら、自らの課題を解決する力を育む場である」

「一人も見捨てない教育を、社会を実現する」

 

この言葉に出会ったとき、私は自分の甘さを突きつけられた気がしました。

 

一斉指導の授業では、どうしても「平均的な児童生徒」に向けた解説になります。

そうすると、既に理解している成績上位群は退屈し、理解に時間が掛かる層は置いてけぼりになってしまう。

教師が前で喋れば喋るほど、皮肉にも「見捨てられる子」が生まれてしまう構造があるのです。

 

『学び合い』の授業では、教師は授業の冒頭、たった数分でこのように語ります。

 

「今日の目標は〇〇です。クラス全員が〇〇をできるようになってください。方法は皆さんに任せます。さあどうぞ。」

 

あとは教壇から移動し、一人の「観察者」に徹する。

 

「それは放任ではないのか?」

「先生が教えなかったら、子どもたちは遊んでしまうのでは?」

 

最初は私もそのように思いました。

 

しかし、現場で実際にこうした「授業」を試みたとき、

私の目の前に広がったのは、全く想像していなかった光景でした。

 

教壇から動いて見えた、学びの「本当の姿」

 

覚悟を決めて「教えること」を手放したあの日。

教室は一瞬、静まり返りました

 

子どもたちは戸惑い、互いに顔を見合わせたりします。

しかしそれもつかの間、一人の子が隣の子に声を掛け始めました。

 

「ねえ、ここ、どういう意味?」

「あ、それはね……」

 

そこから、教室が沸騰したように動き始めました。

 

普段は大人しくて発言しない子が、得意な友達を捕まえて必死に質問している。

 

勉強が得意な子が、ただ答えを教えるのではなく、

相手が分かるまで言葉を選んで丁寧に説明している。

 

さらには、クラスのあちこちで

「あっちのグループ、まだ終わってないみたいだよ」

「助けに行こうぜ」

という声が上がり始めました。

 

私がジョークを交えて解説しても、発問や板書を工夫しても引き出せなかった、

「当事者意識」と「熱量」が、そこには渦巻いていました。

 

私は教室の隅で、震えるような思いでその光景を見つめていました。

 

「ああ、子どもたちには、こんなにも自力で育つ力があったんだ。今まで彼らを『教えられないと動けない未熟な存在』だと決めつけていたのは、他ならぬ私自身だったんだ」

 

私の「丁寧な教育」という名の過干渉が、彼らの「天然の学ぶ力」に蓋をしていた。

その事実に気づいた瞬間、私のエゴは粉々に砕け散りました。

 

「信じて任せる」ことは、最大の技術である

 

『学び合い』を実践して分かったのは、教師が「教える」のをやめることは、

「決して楽をすることではない」ということです。

 

むしろ、教えるよりもずっとエネルギーを使います。

 

目の前で子どもたちが悩み、沈黙し、時には間違った方向に進みそうになるのを、グッとこらえて見守る。

 

「先生、教えて」という甘えの誘惑を断ち切り、「あなたたちならできるよ」と背中を押し続ける。

 

これは、深い「信頼」がなければ不可能な、高度な技術です。

 

大人が「熟達者」として上に立ち、答えを与え続けている限り、子どもたちは永遠に「未熟なフォロワー」のままです。

 

しかし、大人が横に立ち、彼らの可能性を信じて丸ごと任せたとき、

子どもたちは初めて「自分の人生の主役」として歩み始めます。

 

この「信じて、任せて、添う」という姿勢こそが、

私の提唱する「添育(そういく)」の心臓部になりました。

 

『学び合い』を社会に、家庭に広げたい

 

大学で出会ったこの『学び合い』という思想は、

私に「教育の本当のゴール」を教えてくれました。

 

それは、テストで良い点数を取らせるというレベルのことに留まらず、

「自分も周りも大切にしながら、自律して生きていける人間を育む」というレベルのことです。

 

しかしこの素晴らしい哲学は、まだ「授業手法」の一つとして語られることが多いのが現状です。

 

「信じて任せる」「一人も見捨てない」「育ちに寄り添う」というエッセンスは、

教室だけでなく、家庭での育児や、会社でのマネジメントなどなど、

あらゆる「人の育ち」の場面で必要とされているのではないでしょうか。

 

だからこそ、私はこの思想をさらに一般化し、誰もが日常で実践できるカタチにしたいと

考えました。

 

それが「添育(そういく)」という新しい挑戦です。

 

結びに:暗闇を抜けて

 

第1回で感じていた「指示待ちの子ども」という事実から抱く怖さ。

それは、『学び合い』という「信じる教育」に出会ったことで、「希望」へと変わりました。

 

「子どもには、自ら育つ力が備わっている」

 

この確信をさらに深めてくれたのが、教員としてのキャリアを一時停止して飛び込んだ、

現在の「育休」という時間でした。

 

学校という枠組みを離れ、24時間わが子と向き合う中で、

私はさらなる衝撃的な発見をすることになります。

 

次回は、「0歳児が教えてくれた、教えられなくても自ら育つという事実」

 

教科書もなく、先生もいない中で、

わが子がどのようにして「自律」のスイッチを入れていったのか。

 

家庭での添育の原点についてお話しします。

【第3回】0歳児が見せてくれた、教えられなくても自ら育つという事実
第1回では教員として感じた「指示待ち」への危機感を、第2回ではその答えとなった『学び合い』との衝撃的な出会いを綴りました。今回は、舞台を学校から「家庭」へ移します。育休を取得し、生まれたばかりの我が子(0歳児)と24時間向き合う中で、私が目...

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