第4回では、私が「教育」という言葉の裏側に感じていた、
ある種の「支配」や「過干渉」という名の「トゲ」についてお話ししました。

「良かれと思って」手を貸すことが、実は子どもの自律を奪っているのではないか。
その葛藤の果てにたどり着いたのが、今回お話しする「添育(そういく)」という概念です。
既存の「教育」を否定するのではなく、その隣にそっと書き添える。
私が人生かけて広めていきたいと願う、この新しい旗印の「定義」を記します。
「添育」という言葉。
私はこの響きに、これからの時代を生き抜くための、最も優しく、かつ最も強靭な
「関わりの哲学」を込めました。
教員としてのキャリアと、親としての生活が重なり合う中で、私はある確信に至りました。
それは「育つ」という行為の主体は、どこまでいっても本人(学習者)にあるということです。
では、周りの大人は何もしなくていいのか?
いえ、そうではありません。
むしろ「教える」よりもずっと高度で、クリエイティブな役割が私たちに求められています。
「添育」という言葉の解剖
まず、この言葉を二つの漢字から紐解いてみましょう。
- 「添(そ)う」:
主役の横に並ぶこと。決して前に出すぎず、かといって離れすぎない絶妙な距離感。
相手が向かいたい方向へ進むとき、その歩調に合わせて寄り添うこと。
- 「育(いく)」:
いのちが本来持っているプログラムに従って、自ら養われ、成長すること。
外から無理やり「育てる」のではなく、内側から「育つ」という自動詞的な響き。
つまり、添育とは、
「本人が自律的に育っていくプロセスに、大人がそっと寄り添い、付け加わること」を指します。
添育の定義(ステートメント)
・添育(そういく)とは:
学習者が本来持っている「自ら育とうとする力」を最大限にリスペクトし、
その発露を妨げない環境を整え、共に歩む「伴走型」の関わり方のこと。
「教育」と「添育」の違い
定義をより鮮明にするために、従来の「教育」と「添育」の違いを表にまとめてみました。
(生成AIすごすぎる✨)

従来の教育が「正解への最短ルートを走らせるための導き」であるならば、
添育は「本人が自分の足で、自分の人生を歩き出すための伴走」です。
どちらが良い・悪いという話ではありません。
しかし、正解のない不確実な時代を生きる私たちにとって、今圧倒的に足りていないのは、
この「横の関わり(添育)」ではないでしょうか。
添育を支える「3つの合言葉」
添育の定義を具体的に実践に落とし込むためのフレームワーク、
それが「整える・観る・待つ」です。
- 整える: 指示を出す代わりに、本人が動きたくなる「環境」をデザインする。
- 観る: ジャッジを捨てて、本人の内側で起きている「変化」を観察する。
- 待つ: 相手の「自分で成し遂げる権利」を奪わないよう、信じて沈黙する。
この3つのサイクルを回し続けることが、添育の実践です。
この概念が向かう先
添育は、単に「子どもをどう育てるか」という手法にとどまりません。
それは、
目の前の一人の子どもに対して「スポットライト」を当てるような深い寄り添いでもあれば、
教室や職場という集団・組織全体を「太陽」のように温め、自律を促す組織論でもあります。
この「添育」という概念は、子育て、学校教育、そしてビジネスにおけるマネジメント、
自分自身の「人生の再構築」にまで応用できる可能性を秘めていると考えます。
結びに:主役の座を、本人(学習者)に返す
添育は、教育のメインストーリーを否定するものではありません。
しかし、大人が主導する「縦の教育」の横に、本人が主役である「横の添育」という余白を書き添えたい。
「あなたは、そのままで育つ力を持っている」
「私は、それを誰よりも信じて横にいる」
そんな確信こそが、人の「自律」のスイッチを入れることができると、私は信じています。
さて、今回は私が考える添育の「定義」をお伝えしましたが、次回はさらにこの概念を広げて考えてみたいと思います。
添育には、二つの大きな景色があります。
「一対一の『対個人の添育』」と、「一対多の『対集団・組織の添育』」
この二つにおいて、私たちの役割はどう変わるのか。
あるいはどう共通しているのか。
私が『学び合い』から得た確信と、育休中の気づきを融合させた、
「対個人」や「対集団・組織」への新しい関わり方や自分自身のあり方について、お話しします。



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