私は「教員」という職業を心から誇りに思っています。
「教育(Education)」が、これまで人類の知恵を繋ぎ、未開の地を切り拓き、無数の人々の人生を豊かにしてきた。
その偉大な功績に疑いの余地はありません。
しかし、公立小学校という現場で、文字通り「教育」の最前線に身を置いてきた私は、
いつからか、この美しい言葉に、喉に刺さった小さな魚の骨のような、
あるいは指先に触れる小さな「トゲ」のような、言いようのない違和感を抱くようになりました。
「教育」という旗印を掲げ、子どもたちのためにと心血を注げば注ぐほど、時としてその「熱意」が、
子どもたちの内側にある「自律」という柔らかな芽が出るのを邪魔しているのではないか。
今回は、私が「教育」という言葉に感じたトゲの正体、そして、あえて既存の言葉ではない新しい旗——「添育(そういく)」を掲げた理由についてお話ししたいと思います。
「導く」という言葉に潜む「支配の影」
「教育」という漢字を分解すると、「教え、育てる」となります。
英語の「Education」の語源は、ラテン語の「educere(外に引き出す)」だと言われますが、
現在の私たち日本人が日常的に使うこの言葉は、どうしても次のような「縦の関係」のイメージを抱きがちです。
- 熟達者(大人・先生)が、未熟者(子ども・学習者)を導く。
- 知っている者が、知らない者に正解を授ける。
- 上から下へ、川の流れのように知識が流れていく。
この「縦のベクトル」自体が悪いわけではありません。
文明の利器を使いこなし、社会のルールを学ぶ上で、先人の知恵を効率的に継承することは不可欠です。
しかし、このベクトルが一方的に強すぎると、そこには「支配の影」が忍び寄ります。
大人が「これが正解だ」「こっちが正しい道だ」と確信を持って導けば導くほど、
子どもは自分の足で歩くのをやめ、大人の手のひらの上で器用に動く「演者」になってしまうのです。
私がかつて感じた、教室で響く「先生、次はどうすればいい?」という言葉への怖さ。
その正体は、大人が敷いた完璧なレールの影で、子どもの「自分自身の意志」という魂が、
ゆっくりと消えていってしまうことへの恐怖だったのかもしれません。
「親切」という名のトゲ
このトゲの厄介なところは、それが「悪意」ではなく「善意」や「親切」に包まれていることです。
先生も、親も、みんな子どもを愛しています。
苦労させたくないし、失敗して傷つく姿を見たくない。
最短距離で成功してほしい。
だから、先回りして教え、指示を出し、手助けをしてしまいます。
しかし、その「過剰な親切」は、子どもから見れば
「あなたは一人では何もできない、未熟な存在ですよ」という無言のメッセージにもなり得ます。
「教える」ことが、「あなたの可能性を、私が決める」ことになっていないか。
「導く」ことが、「あなたの試行錯誤する権利を、私が奪う」ことになっていないか。
私は、教員として「良き指導者」であろうとすればするほど、自分自身が子どもたちの自律を妨げる最大の壁になっているような気がしてならなかったのです。
この「良かれと思ってやっていること」が相手を不自由にする感覚こそが、私が感じた「トゲ」の正体でした。
「添育」という新しい旗を立てる理由
既存の「教育」の枠組みの中で、この問題を解決しようとしても、どうしても限界がありました。
なぜなら「教育」という言葉のOS(基本ソフト)が、本質的に「縦の構造」を前提としているからです。
だからこそ、私は全く新しい、もう一つの軸が必要だと考えました。
それが「添育(そういく)」です。
これは、従来の教育を否定し、取って代わろうとするものではありません。
「教育」が、正解や目標へ向かってグイグイと引っ張る「縦の力」であるならば、
「添育」は、今、その子が立っている場所に横並びで寄り添い、その子が自分の力で立ち上がろうとするのをじっと見守る「横の力」です。
教育と添育:対になる二つのアプローチ
- 教育(Education): 熟達者から未熟者へ。正解へ「導く」縦のベクトル。
- 添育(Soiku): 学習者の育ちに横から「添う」横のベクトル。
この二つは、車の両輪です。どちらか一方だけでは、人生という複雑な道は進めません。
しかし、これまでの私たちの社会は、あまりに「縦の教育」に偏りすぎていました。
今こそ、その対になる「横の添育」という概念を明確に打ち立て、バランスを取り戻す必要があると考えます。
私がこの「添育」という概念を言語化・体系化し、大切に守ろうとしているのは、
「教える側の傲慢さを戒め、学習者の主体性を何よりも尊重する」という、私の覚悟の証でもあるからです。
主役の座を、子ども(本人・学習者)に返す
「添育者」として生きる。
それは、大人が「万能の神」であることをやめる、という宣言でもあります。
0歳児の我が子が、私の助けなど借りずに、自らの試行錯誤だけで寝返りに成功したとき、
私はそこにある種の「聖域」を見ました。
大人が土足で踏み込んではいけない、生命自らが自分を形づくっていく神聖な時間です。
添育とは、その聖域の番人になることです。
大人が教壇から降り、主役の座を子どもたち(学習者)に返す。
私たちは、主役が転んだときにそっと支えるセコンドであり、舞台が整っているかを確認する裏方に徹する。
この「横の関わり」が日常の中に増えていけば、子どもたちは「自分で考え、自分で自分を整える力(自己調整力)」を、自然な形で、しかし強固に身につけていくはずです。
結びに:誰もが誰かの「添育者」になれる世界へ
「教育」という言葉に感じたトゲ。
それは、私に「本当の豊かさとは何か」を問い直させてくれる道標でした。
大人が主導するのではなく、学習者が自ら育つのを信じて、そっと添う。
この「添育」というマインドセットは、学校の先生だけでなく、子育てに奮闘する親御さんや、
部下の育成に悩むリーダー、そして、自分自身のキャリアに迷うすべての大人に、新しい視点をもたらすと信じています。
私たちは、教えるのを少しお休みして、ただ「添う」だけで、実はもっと多くのものを得られるのかもしれません。
さて、ここまで4回にわたり、
・私が現場で感じた「違和感」

・『学び合い』との衝撃的な「出会い」

・そして0歳児の姿から得た「確信」を経て、

なぜ既存の言葉では足りず、新しい旗が必要だったのかをお話ししてきました。
私の心の中にあった、形にならない熱い塊。
それを言葉にするための、少し長い旅路にお付き合いいただき、ありがとうございます。
次回、第5回。
いよいよ、その旅のひとつの到達点をお示しします。
これまで、あえて明確な言葉にするのを避けてきた核心部分。
「結局、添育(そういく)とは、一体何なのか?」
現職教員として、そして一人の親として、私がたどり着いたその「定義」を、
みなさんと共有したいと思います。
それは「教育」という偉大な歴史を持つ言葉の隣に、そっと、しかし力強く書き添える、
新しい関わり方の宣言です。
どうぞ、お楽しみに😊✨




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